about history of Gotobessou

後藤別荘の歴史

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後藤別荘

 

Goto Josaku

後藤 恕作

国産毛織物に人生を捧げた
民間毛織物メーカーの祖

後藤恕作は激動の明治・大正・昭和に活躍した実業家です。恕作は安政5年(1858年)、兵庫県で生まれました。大阪での奉公時代を経て、明治8年(1875年)、17歳のときに東京に赴きました。
 
その後、日本・中国で毛織染色学を修めた恕作は、富国強兵による繊維や被服の国産化の波に乗り、明治13年(1880年)、毛糸の紡織や毛織物の製絨を手がける「後藤毛織製造所」を興しました。海軍からの受注を得るようになると、事業は少しずつ好転し、明治23年(1890年)には東京大井町(現:品川区)に工場を移転。さらに事業を拡大しました。
 
同工場が「初の民間毛織物工場」であったため、恕作は「民間毛織物メーカーの祖」と呼ばれるようになったのです。明治40年(1907年)には、後藤毛織製造所から「後藤毛織株式会社」へと組織変更し、超大手毛織物メーカーである東京毛織会社の設立にも尽力しました。恕作は名実共に日本の毛織産業の名士となったのです。
 
もともと研究熱心であった恕作は、地位や名誉でもなく「もっと良質な毛織物を作りたい」という熱意だけで日本の毛織業の発達に貢献しました。この功績をたたえ昭和3年(1928年)、緑綬褒章を授与されました。

 
 
 

Goto Bessou

後藤別荘の成り立ち

今では唯一となった
「岐阜の織物産業」隆盛の象徴

明治・大正時代を東京で過ごし、加速度的に西洋化する日本を目の当たりにしてきた恕作。そんな彼が建てた後藤別荘(当時は「木曽川別荘」と呼ばれた)は、大正建築の特徴である赤煉瓦が印象的です。今見ても古さを感じないこの別荘には、様々な歴史があります。
 
後藤毛織が経営難のため別荘を手放した昭和7年以降も、ここは地元の名士の社交場として利用されていたと思われます。昭和8年(1934年)には川上貞奴が建立したお寺「貞照寺」の入仏式の「稚児行列」出発点として後藤別荘は利用されています。その様子は記録映像に残され、はっきりと彼女の姿と当時の後藤別荘の精悍な佇まいを確認することができます。既に女優を引退し当時60歳を超えていた貞奴ですが、彼女の文化や実業における功績から、貞照寺の入仏式には大勢の地元の人々や名士が集いました。
 
第二次大戦後に米軍に接収された時期を経て、昭和31年(1956年)、都築紡績・鵜沼工場(本社:知多郡阿久比町)が誘致されたのを機に、隣接する後藤別荘も都築紡績が管理することになりました。長らく都築紡績に管理され、時が経過した平成14年。都築紡績は、同じ知多半島に本社を置く「創寫舘」に別荘の管理を任せることにしました。
 
しかし当時の後藤別荘は、国道から離れており(高山線を挟んだ木曽川側に建っていた)、また老朽化が進んでいたため、そのまま再生・活用することが困難でした。そこで、既に萬松園の改修を手がけていた創寫舘は、ふたつの別荘を隣接さようと、後藤別荘を国道21号線沿いにある萬松園の隣に移築。ここに、鵜沼の歴史を代表する建築物が並ぶエリア「サクラヒルズ」が誕生しました。
 
様々な歴史を積み重ねたにもかかわらず、今もなお、人々から「後藤別荘」と変わらずに呼ばれる理由は、この別荘が毛織物で反映した時代の象徴であり、その強い印象が残っているからかもしれません。恕作が建てた別邸は、この木曽川別邸以外に「城山荘(各務原市)」「長良川別荘(岐阜市)」がありましたが、それらは既に取り壊されているため、現存する唯一の歴史的建築物となり貴重な存在になりました。

移築直前の後藤別荘(2002年撮影)

 

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